研究紹介

<受験情報ページCLIP掲載>対談02「ポストコロナ時代の観光学」

2021.2.22

西川亮(観光学科)

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高岡文章(交流文化学科)

 

対談「ポストコロナ時代の観光学」02

 

 

■ コロナだからみえてきた観光の特徴

 

―― さて、ここからが本題になりますが、ステイホーム、オンライン、三密を避ける、といったこんにちのコロナ禍における社会状況は、逆に観光の特徴をあぶりだしているともいえます。このことは本日の対談のテーマである「ポストコロナ時代の観光学」を考えることにもつながるのではないか。まずはこの点についておふたりが感じていることをお話し下さい。

 

高岡 社会学には、エミール・デュルケームに端を発する逸脱論という考え方があります。胃が痛いということに気づいて初めて、人は胃の存在を認識しますね。このように、逸脱という状態から逆照射して正常とは何かを考察するのが逸脱論です。

 さて、いま「ステイホーム」の掛け声とともに移動が制限されているとき、いちばん誰が得をしているかというと、実は私たちのような観光研究者なのではないか。社会全体の移動を中断するというのは、きわめて非人間的で暴力的なことです。しかし、現実に移動が止まりました。このような異常な状態においてこそ、移動とは何か、旅とは何か、他者をまなざすとはどういうことか、などといった本質的な問いについて、私たちはよりクリアに思考できるようになりました。コロナの時代にあって観光学はピンチだという人もいますが、私にはピンときません。物事を深く考えるチャンスが与えられたという意味では、こんなに興味深い状況はない。私たち観光研究者は旅や移動について考えることを切実に求められているといってよいと思います。

 

西川 移動できない、観光できないという状況が、逆に観光とは何かという問題について考える機会を私たちに与えてくれているということですね。観光は日常の生活圏から非日常に移動し、その先であらゆることをするというのが一般的な定義で、そのように移動してきた観光客の消費によって観光事業者は利益を得るわけですが、よく考えると、観光事業者が提供するサービスは外部から来訪する観光客のためにあるもの、と限定する必要はなく、地元の人が使ってもよいはずです。新型コロナ流行という状況は、その区分けや境界を薄めていく機会になっていると思います。

 最近の民間サービスをみていると、移動しなくても地域と居住地がつながるものが増えています。たとえば今年の4月頃、お取り寄せが流行りました。現地に行かなくても、観光地のことを感じることができる。移動という言葉の意味も、必ずしも身体が動くことを含めないものがあると考えていかなければならない。

 

―― 古くから観光の重要な構成要素とされてきた「移動」に対する認識が揺らぎ始めているということでしょうか。こうしたツーリストによる移動の変化について、もう少しお聞かせ下さい。

 

高岡 「身体的な移動」と「イメージの旅」というふたつの概念を用いて考えてみたいと思います。そのふたつがいま問題になっているのではないでしょうか。

 これまでの観光学における観光の定義は、身体的な移動を前提にしていた。それは部分的には経済的な効果と絡んでいました。宿泊しないと地域にお金が落ちないし、観光を統計的に計りづらい。そのため、自分が住んでいる日常生活圏の外に移動して宿泊する、というのが古典的な定義でした。ところが、近年ではその概念がより流動的になっており、拡張しているといえます。

 たとえば、ゲストハウスのオンライン宿泊がありますね。ゲストハウス好きの人たちがオーナーとオンラインでおしゃべりをするだけなのですが、人気があるようです。ゲストハウスの魅力とは、単に宿泊することにとどまらず、旅人同士でおしゃべりしたり、旅の情報を交換したりといった、一種の共同体をつくることにまでひろがっている。居場所としてのゲストハウスですね。そうしたことが、オンライン宿泊体験でより鮮明にみえてくる。身体的な移動か、イメージ上のコミュニケーションかの二者択一ではなく、イメージの旅が身体的な旅をどのように変えていくのか、どのように再編するのか、といった問いが重要だと思います。

 

西川 いまの状況を、観光客を受け入れる地域側の立場から考えてみたいと思います。旅館やホテルなどでの宿泊やみやげ品の購入など、観光客による消費は地域に経済的な影響を与えていることは確かですが、そもそも、なぜその地域にとって観光という手段が必要なのか、あらためて見直すよい機会ではないかと思っています。

 2010年代は「観光バブル期」だったのではないか。2000年代初頭から始まる日本の外客誘致は、もともとは日本人の海外旅行者数とのバランスを取る目的がありました。しかし、2010年代、特に地方創生の柱として観光が期待されたこともあり、加速度的に外客誘致政策が展開していきました。地方自治体としては、国の政策についていかなければ国からの支援や補助金を得ることができない。地域の意思というより、国の戦略にしたがって動いてきたという側面も否めません。確かに観光は成長分野でしたが、地域経済の活性化の手段として観光に注力しすぎてきたことに誰も疑問を感じなかったし、それを問おうとしなかった。ただ、2018年頃から京都や鎌倉などではオーバーツーリズムが問題視され、少し観光一辺倒の地域のあり方に疑問が呈されてきたところで、新型コロナの流行という事態に直面したわけです。

 本来は持続可能な観光というより、持続可能な地域を考えることが重要で、そのためにどんな観光があるべきなのかを考えるのが妥当だと思います。都市計画やまちづくりの視点から観光を捉える立場としては、常にそのように観光をみてきました。経済や社会にとってあるべき観光を問い直すという意味で、2010年代に実際に観光でどの程度地域が経済的にも社会的にも潤ったのか、学術的に検証すべきだと思います。

 

高岡 「2010年代は観光バブルの時代だった」いう西川先生のご指摘は面白いですね。私が観光について勉強し始めたのは2000年頃ですが、その頃の教科書には「21世紀は観光の世紀だ」と書かれていました。文化人類学者の石森秀三は、2010年代にアジアで観光が拡大して「観光革命が起こる」と予言しました。そんなこと起こるのかなと私は半信半疑でしたが、予言は的中しました。観光一色といってもよい状況になり、観光の経済効果についての関心が日に日に高まってきました。

 ただし、ここに考えるべき問題が横たわっています。観光にとって、経済は目的なのかそれとも結果なのか、という問いです。観光まちづくりという思想や運動がありますね。従来のような経済効果をあてこんだ観光地づくりではなく、観光を通じたまちづくりを目指す取り組みです。観光に食いつくされる地域ではなく、観光を飼い馴らすことで持続的な地域運営を模索していく。

 観光バブルの時代というのは、経済のための観光という側面が強かったと思います。しかし、観光は本来経済のためでも地域のためでもない。私たちが映画館に行くのは、映画館の経営のためではないし、映画製作者の利益のためでもない。映画を観たいからですよね。個人個人の楽しみや欲望が映画にまつわる行為や現象を支えている。観光も同じです。観光のそういう側面をもっとみていく必要があると私は思っています。

 最近、「地球の歩き方」シリーズから『地球の歩き方 東京』が刊行されました。これを読んで、社会学者ジョージ・リッツァの「自生活空間内観光客」という概念を思い出しました。自分の住んでいる町をあたかも観光客になったつもりで歩いてみると、そこにはたくさんの楽しみが詰まっている。地域経済の活性化という側面もあるかもしれませんが、それだけでは説明できない観光の姿があるはずです。個人的には、そういう「社会的」な側面について考えることが、観光の新たな可能性を切りひらいていくのではないかと考えています。

 

西川 日本で観光まちづくりが始まったきっかけは、経済的な側面からもありますが、むしろ観光客が来ることで、自分たちの地域の固有性や歴史文化を「光」として認識していくことにあったといえます。ところがその後の状況は、国がいう地方創生の文脈に観光が乗ってしまったがゆえに、経済に過度に舵を切った結果だと思っています。一方、2010年代はSNSなどを通じて観光客の行動が大きく変わりました。観光客同士のつながりによって行き先が変わったり、新しい行き先が生まれたりした。その結果、あるスポットへの一極集中が起き、オーバーツーリズムにつながったという面もある。

 観光が本来持つ、人と人のつながりを楽しむことこそ、旅の魅力ではないか。コロナはそれをあらためて再確認させてくれた。いまこそ、観光の本来の魅力を訴えるよい機会ではないか。それが地域にとっても望ましい観光のスタイルとして定着していくチャンスなのではないでしょうか。

 

 

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※ この対談は2020年11月11日に立教大学新座キャンパスにてオンラインで実施されました。

※ この対談は2021年4月に発行される『RT』第1号に掲載予定のものです。発行時には文章表現などが変更になっている場合があります。

 

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